012 いまこそ、私心なき専門性を問う

今回の五輪エンブレム問題の報道では、「デザイン」ということばが頻繁に飛び交い、「デザイン界」の問題のように語られてきました。この問題が、単に「デザインの問題」であるのか否か、その説明のために、問題の発端となったデザインコンペの成り立ちや構造について、今から咀嚼して説明いたします。

五輪エンブレムのコンペや審査会を主催しているのは組織委員会です。コンペのクライアントである組織委員会から仕事を受注したのは、誘地活動に貢献し、成功させた大手広告代理店です。その広告代理店のクリエイティブディレクターがいく人かの出向者とともに、クライアントである組織委員会に出向し、企画責任者として指揮をとっていました。このように、広告制作を生業とする人が、コンペの主催側の立場を得て、実質の企画責任者となり、複数の著名なグラフィックデザイナーの有識者からのアドバイスを受けながら、有識者の考えを取り入れ、コンペの骨子をまとめ、それに従い実践しました。このクリエイティブディレクターとともに一部有識者も審査委員をつとめ、また、一部有識者に出品者がいることを、クリエイティブディレクター本人より聞いています。

このように、広告代理店がコンペを仕切ったということは、基本的には広告制作のスキルと方法論と価値観によって審査が仕切られ、実行されたということでしょう。公的な目的のエンブレム開発というミッションに対して、専門が広告代理業であるために、『公』のデザインコンペを仕切るための認識が欠如していたと想像いたします。広告業界で日常的に行われるコンペや競合に対処するための兵法として会得している、勝つための方法論が、『公』のコンペには通用しないことに、もしくは不適切であることに気がつかなかったのかも知れません。この不適切な方法論については、「倫理」の観点から考察すると分かりやすくなると思いますが、ここでは精神論には言及せずに前に進みます。

もしも、このクリエイティブディレクターが、グラフィックデザインへの造詣や理解が深く、美学的観点を備えていたのならば、コンペは成功していたかもしれません。なぜそのように思うのかといいますと、かつて日本の宣伝広告界は、向秀男(むかい・ひでお)さんや山城隆一(やましろ・りゅういち)さんという、グラフィックデザインの美学を広告に昇華させ、世界的な評価を受けた先人を輩出してきたのです。

五輪エンブレム問題を考え、語るうえで忘れてはいけないのは、コンペを実質的に司っていたクリエイティブディレクターや広告代理店から出向していた人たちが、誘地に尽力し、長年の努力が結実し、東京オリンピック開催に繋がったという事実です。誘地までは広告代理店のノウハウが、専門性が最大限に生きた、生かされたということです。ここからは、私見をのべさせていただきますが、この成果を導いた人たちだからこそ、責任者である本人に説明していただきたいと思うのです。組織に属する人として、発言することが許されないのかもしれませんが、自身の、かけがえのない人生のために、自分のことばで説明できる日がくることを祈ります。

専門性について論じるために、ひとつのデザイン作品の事例を引用いたします。1964年の東京オリンピックのシンボルマークとポスターが、グラフィックデザイナーの亀倉雄策(かめくら・ゆうさく)さんのデザインだということは、あまりにも有名ですが、その説明では、事実に対して正確とはいえません。オリンピックの公式ポスターは4作品ありまして、そのうちの2作品は共同作業で制作されました。その2作品、“スタートダッシュ”と“バタフライ”というポスターを誰が作ったのか、制作者の名前を知っている人は、ほとんどいないと思います。

公式ポスター4種類のうちの2作品、陸上競技のスタートダッシュの瞬間を真横から捉えた、公式第2号ポスター“スタートダッシュ”と、バタフライの選手の躍動の瞬間を真正面から捉えた公式第3号ポスター“バタフライ”は、亀倉雄策さんとともに、アートディレクターの村越襄(むらこし・じょう)さんがフォトディレクションを手掛け、写真家の早崎治(はやさき・おさむ)さんがシャッターを押し、この三者の力によって完成しました。あのポスターは、グラフィックデザイナーひとりの能力で作れるものではなく、フォトディレクションという専門性が加わることで完成しています。しかし、フォトディレクションのスキルをもつ広告制作者ひとりの能力でも作れません。選手の鍛え抜かれた精神と肉体が競い合う瞬間を捉え、オリンピックの精神をビジュアライズした刹那の美は、世界最高峰のスポーツの祭典のイコンとして、半世紀の年月を経ても尚、色あせることはなく、燦然と崇高な光を放っています。亀倉雄策さんの悟性が表出させた「グラフィックデザイン」の最上位の概念と、村越襄さんの感性が表出させた「アートディレクション」及び「広告」の最上位の概念とが融合したことで、東京オリンピック開催当時の日本宣伝美術の最高峰の美学が表出した、奇跡の瞬間だったのです。

東京オリンピックのシンボルマーク・デザインにみられる思想性の高さとともに、“スタートダッシュ”のポスターの写真表現にみられる、先端性と美しさが、日本のクリエイションのレベルの高さを、日本人の美意識の高さを世界に表明したと言っても過言ではありません。しかし、亀倉さん、村越さん、早坂さんのポスター制作の目的は、「日本の美意識の高さを世界に表明すること」ではなかったはずです。制作者の目的はただひとつ、自らのクリエイターの誇りをかけて、「日本のために」、「オリンピック成功のために」、目的はそれだけだったのだということが、ポスターから感じられるのです。ここは、私心や欲や一点の濁りも入る余地のない世界です。このポスターの図像を見るたびに、オリンピックには、「グラフィックデザイン」の『ちから=専門性』と、「広告」の『ちから=専門性』という、両方のスキルが必要だということを考えさせられます。そして、私心なき専門性が必要だと思うのです。

東京オリンピックの公式ポスター“スタートダッシュ”と “バタフライ”からは、かつて日本のグラフィックデザイン界が、「デザイン」と「アートディレクション及び広告」の、それぞれの専門性を尊重し、讃え、共存していたことを伺い知ることができます。しかし、いまは、かつての「デザイン」と「アートディレクション及び広告」の美しい共存関係があるようには見えません。再び、取り戻すことができるのでしょうか。オリンピックを5年後に控え、美しい共存が求められているのだと思いますし、好機なのではないでしょうか。

そのために、いまこそ、「専門性とは何か」を問いたいのです。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める