009 『公』の仕事

007章と008章で書きれなかったたいせつなことを、この章に記します。

なぜ私がブログという、インターネットの可視化空間を選択し、考察を続けているのかといいますと、私の行動規範の根底には、『公』という概念への揺るぎない確信があるからなのだと思います。私が考える、『公』の理想の姿には、360度全方位、どの角度から見られても耐え得る強度と透明性というものを、視覚的にイメージしています。この『公』の理想のイメージの透明性と矛盾しないスタイルで、考察を重ねていくためには、デザインの判断として、インターネットの空間が最適であるということに思い至りました。

あえて口にするまでもなく、オリンピックは国際的な国家規模のイベントです。そしてそれを運営し、支えている組織委員会に属する人たちは公人であり、『公』の責務を担われる方々です。そのなかには、『みなし公務員』と呼ばれる立場の方もおられます。五輪エンブレムの審査もまた、『公』の 仕事のひとつであり、審査委員は公人という立場ではないものの、専門家として専門性を提供することで、『公』の責務の一端を担っていると考えます。ですので、審査委員として関わった『公』の仕事で問題が起きたのであるならば、必要に応じて、知り得る事実を提供しなければならない義務を負うているという認識はありますし、そのように自覚しています。

筋論で考えて、理想を言わせていただきますと、この度の問題に関連して見聞したことを、私自身の手によって、私が管理する場所で公表するのではなく、知り得た事実や情報を、組織委員会にお伝えし、しかるべき見識者の手によって、複数の人が介在する多面的な事実や現象を、一箇所に束ねて検証し、情報を精査したのちに整理して、国民のみなさまに伝えていただくという方法を選択することが、理に適っていると思います。しかし、審査の経緯を知る者として、組織委員会が行った、2015年8月5日、8月28日、9月1日、9月18日、9月28日の5回の記者会見を見たところ、私が公表すべきと考える論旨論点と、組織委員会が公表すべきとする論旨や方法が、あまりに大きく食い違い、価値観の溝や隙間が埋められず、組織委員会から事実を公表していただくという理想主義的な方法は諦めて、自身のブログで考察と記録をはじめることを決めました。

このように、審査委員のひとりとして、『公』の責務の一端を担っていると考えていなければ、今回のような行動は起こしていないということを、ここで明言いたします。

『公式見解』という文言にも、『公』という文字が含まれており、この『公』の字に託された意味の重さを感じながら、記者会見の記録に目を通してきましたが、007章と008章で記したように、組織委員会が創作した言葉でありながら、私の発言として記者会見で公表された内容を素材とし、社会的信用のある記者が記事にして、世界に向けて発信され、拡散していく現象を、止めることができない無力さに絶望し、屈辱に耐えがたい日々を強いられた先に、ここでも『公』の大義とはいったい何なのか、この大きな命題に対峙せざるを得なくなりました。しかし何が幸いするのかわかりません。この絶望感や屈辱感に苛まれた苦渋の時を経たことで、行動を起こす勇気が湧きました。

そこに大義があるのなら、『私』や『個』を滅することもいとわないと思っていたのですが、この度の問題で、組織委員会という『公』の組織とのやりとりを経た今は、たとえ大義があったとしても、『私』や『個』の尊厳は守られるべきであると考えるようになりました。

いち個人が人生をかけて創り上げてきた思想や言葉を、『公(おおやけ)』の場でぞんざいに扱われ、軽んじられることを、とても残念に思います。とても悲しく思います。今以降、この悲しみを発露とし、さらに、『公』への思索を深めていくことになるでしょう。

組織委員会のみなさまや、オリンピック関係者のみなさまには、公人としての誇りをかけて、『公』の仕事を全うしていただけるように、私のブログの活動が、その一助になればと願い続けていることを、いつの日か、理解いただける日がくるのであれば(私自身も)救われます。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める