035 欲望の公害 精神の断絶

‥‥折しも東京都知事による政治資金規制法違反疑惑が浮上しましたが、都知事の会見の背景には、決定したばかりの五輪エンブレムが連続的に配置されたインタビューボードが使用されているために、イメージの拡散と認知促進を目的としたバックパネルによるPRの手法があだとなり、都知事の記者会見が開かれる度に五輪エンブレムに疑惑のイメージが重なっていくという、新たな負の連鎖が始まりました。‥‥

前回ブログ034章にて、記者会見時におけるPRの手法が誘発する負の連鎖について考察しましたが、なぜ不正問題審議中の東京都知事の定例会見で、五輪エンブレムを配置したバックパネルの使用を控えなかったのでしょう。五輪エンブレムはすでに公的な財産ですので、その価値(=イメージ)を守るために調整の必要があったと思うのですが、結局は都知事の辞職という事態を迎えることになり、安易なPR活動のリスクが顕在化して、リスクマネージメントの難しさが露となりました。

1990年代以降の20数年の間に、記者会見や広報発表会でのバックパネルによるPRの手法がいつの間にか定着しましたが、これが会見時のスタンダードとなった要因は、テレビコマーシャルの媒体費とバックパネルの設置経費との比較において、後者がどれだけ費用効率性が良いかという数字の論理を根拠とした、マスメディアを取り仕切る広告代理店の販促活動の成果であることは容易に推察できますが、画角の中に市松模様とともにシンボルマークや商品名、キャンペーンの名称などが連続的に配置されたエキセントリックなイメージは、見る側にとって多くの場合は不快であり、刷り込み効果を目論んだ連続パターンによるノイジーな背景が気になって、会見の内容に集中することができません。PR戦略は情報発信側の都合は反映するものの、情報の受け手である視聴者の気持ちは配慮されません。近年では官公庁や地方自治体といった公的機関の情報発信にもバックパネルは多用されておりますが、官庁のシンボルマークが連続して配置された画一的な画面からはコマーシャリズムが透けて見え、信頼感や誠実さが伝わってこないと感じます。マネージメントサイドの判断基準に「上品」や「下品」などの「品」という観点があるならば、バックパネルはここまで普及しなかったのではないかと思います。

あらゆる余白を利用して、情報の刷り込み効果を狙いたいのであれば、F1のフォーミュラカーの車体のように、記者会見のカメラの前に立つPR担当者が、企業のロゴや商品名を全身に配置した服を着用するという広告戦略もあると思いますが、そのような方法が普及する可能性はありません。なぜならば、企業ロゴなどがプリントされた服は下品なものに見えますし、その人自身のイメージを著しく落とすことになるからです。ではなぜ服は下品だと思うのに、空間にプリントされた企業ロゴについては許容できるのでしょうか。

バックパネルの使用がすでに慣習化しているからといって考えもなく右にならうということは、思考停止と言えるでしょう。イメージを守るのは、行き着くところクライアント自身の問題ですので、広告代理店の提案をそのまま受け入れるという受動的な方法論ではなく、自分の目で見て、自分の頭で考えて、最適な方法を選択するための判断力が求められる時代です。五輪エンブレム問題では、専門家だからといって必ずしも信用に値する専門性や悟性が備わっているとは限らないという実態が明らかになり、今後の教訓となりました。自分たちの財産である自社のイメージは、欲望を統御した良識的な価値観によって守られていくのだと思います。

商業主義に舵をきった自分本位の価値軸ではなく、いち企業のアクションやアプローチが他者に与える影響をおもんばかるという客観的な観点や、環境の美観を損なわないという社会性をふまえた観点が、情報過多の時代のPR活動に求められる判断軸だと考えます。例えば騒音は騒音規制法の「生活環境を保全し、国民の健康の保護に資することを目的とする」という条文が示すように、法によって監視されておりますが、視覚イメージについても、不快などの感想は主観であり、個人差があるとして議論をシャットアウトするのではなく、視覚イメージが環境に与える影響や、精神に作用するダメージについての研究を進め、行き過ぎたPR活動を規制する法律の設定が必要であると考えます。過剰なPR活動に支配された世界で育つ子供たちの目には、PR情報に埋め尽くされた空間はどのように映っているのでしょう。そのような環境が、子供から大人へと成長する情緒形成過程においてどのように影響していくのでしょう。

なぜこのことを論じているのかと言いますと、これから五輪エンブレムの展開が本格的に進められていく中で、オリンピックの大義のもとに実施される五輪エンブレムの展開というイメージ拡張のアプローチが、どれほどの意味や価値があるのかについて懐疑的に見ているからです。記者会見におけるバックパネルがそうであるように、ありとあらゆる機会のすべてをPR活動に結びつけた結果、欲望の公害という汚染は広がり、緩やかに精神が蝕まれると感じているからです。

白紙撤回となった五輪エンブレム問題では、組織委員会の責任者や広告代理店の担当者、デザインの専門家といった当事者たちの倫理観の欠如や驕りによって救い様のない状況となりましたが、最後まで誰ひとり責任を果たさず、重要な問題が隠蔽された謎の多い調査報告書だけが残り、オリンピック推進側の人たちの行動原理がオリンピック憲章に謳われている理念に則っていないことが露見し、日本の実力が可視化して、その実態を世界にさらすことになりました。このように自浄作用が働かず、何ひとつ解決しないまま新五輪エンブレムが決定しましたが、決定後早々に「招致計画で目標とした約123億円の利益確保を目指すには2千数百億円規模の売り上げが必要となるため、五輪エンブレムを使った公式グッズの販売が大会4年前からという異例の早さで進められる」という主旨の報道記事が出て、いよいよ欲望のオリンピックが始動したことを認識いたしました。

オリンピックの大義のもとに、国立競技場をはじめとする歴史的建造物が充分な検討もなされずに、見識者たちの反論の声にも耳を貸さず、民意も反映されず、スクラップ・アンド・ビルドという蛮行が平然と行われ、文化の発展に貢献した先人たちの尊い偉業が全否定されて、『物に魂が宿る』という崇高な精神が断絶し、無明の時代に生きているのだという実感が日ごと高まっています。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める