016 表現におけるモラリティと表現者のモラル

他人のお金を盗むと、罪に問われます。物を盗むと、たとえ1個のガムであっても、罪に問われます。小説や楽曲の盗用の場合は、内容如何で盗作と認定され、法律で裁かれることもあります。人のアイディアを盗用しても、法律の観点では、「アイディアは著作権の対象にならない」と定義されており、違法性を立証することは困難だということを法律家に教わっています。デザイン作品も同じく、あきらかに類似性が高いものであったとしても、罪に問われることはありません。五輪エンブレム問題から派生して、白紙撤回となった1位案を制作したアートディレクターが、飲料メーカーの販促キャンペーンのためにデザインしたグッズが、複数の他者の創作物のイメージやアイディアを無断で使用したものであったという、その行為の違法性が問題になりましたが、無断で使用した事実が実証されたとしても、法律で裁かれることはありません。しかし、このようなイメージの無断使用という行為と、ガムを盗むという行為との間に差異があるとは、どうしても思えないのです。

公的機関では裁かれませんでしたが、民意によって裁かれました。半世紀ぶりのオリンピックという、国家規模のイベントに関連することでしたので、国民の大きな関心事であり、特別な洞察力とスキルとセンスを持った、匿名の民間人の手によって、デザイン作品の模倣性が短期間に調査され、具体的な根拠や証拠が示されて、デザインのアイディアや表現の出所についての異議が申し立てられました。このような、民間人の調査力がなければ、五輪エンブレムの1位案の白紙撤回はなかったことかもしれません。このことが約1ヶ月という短い期間のなかで行われましたので、その実行力とスピード感は、驚異的なレベルの高さだと思いました。故意ではなかったかもしれませんが、結果だけみると、あきらかにアンフェアな方法であったことは間違いのないことで、当事者たちが認めないことを、客観的に確認するための、民間人による新たな方法論が確立したのではないかと思いました。しかし、残念なことに、この効率的で効果的な方法も利点ばかりではなく、インターネットのすさまじい影響力と破壊力というものが災いし、当人はもとより、その家族や関係者など、多くの人権がおびやかされる状況を招くことになってしまい、場合によっては、風評被害や冤罪につながる可能性も含んでしまっています。

コンピューター開発から端を発し、物理的実態をもたないものをソフトウェアと呼び、物理的実態があるものはハードウェアと呼ばれており、我々は、その文言によって現状を理解していますが、デザイン開発は、このソフトウェア的側面とハードウェア的側面の両方の要素を兼ね備えており、デザインをこれらの観点に照らし合わせて考えてみると、アイディアはソフトウェアの領域といえ、視覚化された造形物や表現物はハードウェアの領域といえるでしょう。このような、異なる性質の複合的な要素が絡み合い、構築されているという観点に立つならば、デザインにおける著作権の問題の立証が困難であるということは、想像に難くありません。

前例のない新たな事象になると、判断のモノサシがなく、そのうえテクノロジーの進化により、年単位で新たなインフラが次つぎと生まれているこの時代の変化のスピードに、法律改正の議論と検証と決定と実行までに費やされるスピードと認識がついていくことができないのでしょう。ましてや、物質的な物理の領域のことであるにもかかわらず、非物質的な領域にも展開し、非物質性を含有するという、複合的要素の現象であることで、そのことが実感として具体的にイメージできないことにより、判断のためのモノサシが設定しづらいのではないかと思います。例えば、暴力により肉体を傷つけられた場合のダメージは、物理的な問題として認識できるものの、言葉の暴力により心を傷つけられるという、目に見えない暴力のダメージを認識することが困難であるように、物理的要素と非物質性を兼ね備えたデザインの領域における著作権の問題の判断が難しいということは、法律家でなくても容易に想像できることですが、難しいからといって、判断のモノサシを設定しないままでいいのでしょうか。

このように、非物質的な領域に入ると、認知しづらくなることに追随し、「イメージの盗用」などという、抽象性を帯びる領域に入っていくと、さらに解析は難解となり、そのことの違法性を認知し、確証することは不可能になるでしょう。けれども確実にいえることは、「イメージを盗む」ということは、クリエイティビティの尊厳を脅かす、クリエイションへの敬意が払われないということであり、オリジナルの創造者への敬意が払われないことなのだと思います。

ここで考察の視点をすこし変えますと、例えば、ある人がある展覧会を体験し、展示作品の図像イメージが視覚情報として鑑賞者にスキャンされて記憶の中に書き込まれ、体験的情報としてその人のイメージのアーカイブにデータベース化されたとし、その体験的情報が何年かの時を経たあとに、情報の出所についての記憶を喪失し、劣化した情報としての図像イメージや視覚情報のイメージもしくは断片的な情報のみが、潜在意識としてデータベースから引き出された場合、故意ではなく、無意識の意識や無自覚の意識として、あたかも自分のアイディアのように表出したとするならば、これはそうとうにやっかいなことになると思います。なぜならば、アイディアの出所の記憶は消えておりながらも、他者の影響を受けているわけで、自覚的ではなく、故意ではないということで罪の意識が生まれず、反省もできないことになるでしょう。ですので、これからマスコミュニケーションのステージでの創作活動を志す人や、すでにプロフェッショナルとして活動している人も、他者からの直接的な影響に対しては、自覚的に、意識的に万全の注意を払うことが必要であり、具体策としては、客観性を高めるための日々の訓練が必要になってくると考えます。他者からの影響を受けやすいということは、一生という単位の時間を費やしたとしても、『個』を確立することができません。そのことは、自分自身を傷つけますし、常に他者の権利を侵害し、傷つけるという、お互いにとって不幸な状況を招くことになってしまいます。

0から1を生み出すには、どれほどのエネルギーが必要なのか、計り知れないことですし、とても神秘的な瞬間だと、いつもそのように感じます。ですので、いたずらに、不要なものを生み出してはならないと、常に自覚的でおりますし、自戒の念が生まれます。ましてや、他者の創造の領域を侵害するなど、クリエイターとして許されることではありません。それが故意であろうとなかろうと、自らの手で表出させたものには、結果、責任が伴います。今の時代は、世界中の情報がネットワークしておりますし、あらゆるものが可視の状態で存在し、バランスし、混沌としたなかに、あやうく秩序が成り立っている状態です。クリエイターはよほどの覚悟をもって表現に向かわなければ、まず、似たような表現はすでにあると思っても間違いはないでしょう。

パーソナルコンピューターが発明され、普及し、表現や創作物の創造と拡張が、自由自在に行使できる、便利な時代になったと思われていますが、今回の事象を考察していくと、クリエイティブのプロフェッショナルにとっては、専門性の習得はもちろんのこと、嘘やごまかしが通用しない、今までにもまして人間性が問われ、本質が求められ、本質のみが通用する時代に突入したことが明らかになったと思います。そして、表現者に求められる素質や素養として、表現におけるモラリティと表現者のモラルということが、最上位に位置する時代なのだと思います。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める