024 負の遺産とならないように

突然「速報」という文言が多数書き込まれ、“netgeek”の記事を知りました。『[速報]五輪エンブレム審査委員の平野敬子さんが佐野研二郎と関係者の癒着疑惑を大暴露』という見出しの記事が出て以降、この見出しの文言が拡散し、インターネット上に飛び交うこととなりました。「速報」、「癒着疑惑」、「大暴露」といった文字がコピペされ、急速に増幅する様を見て、私のブログの真意を介していただけない歪曲された記事によって、「大暴露」という言葉の内側に感じられる憎悪や悪意といった類の感情が、破壊的な勢いで拡散していくことに耐えきれず、絶望感に支配され、執筆に向かう気力を失いかけました。私のブログを多くの人に広めたいと思って下さる編集部の考えはありがたく受けとめていますが、手段を選ばぬ方法をいまだ理解できておりません。批判精神や批評精神といったジャーナリズムの崇高な聖域を一歩でも踏み超えてしまうと、言葉が憎悪といった負の感情を誘発する凶器と化してしまうと思うのです。悪意が言語化されるのか、言語から悪意が誘発されるのか、言語化された悪意や憎悪は凶器となり、人の心や精神を傷つけて、心を蝕んでいくでしょう。

私のブログは個人を糾弾することを目的としておりません。また、組織委員会や大手広告代理店を糾弾することが目的でもありません。起きてしまった問題の関係者のひとりとして、国民のみなさまに事実を伝える責務を果たさなければと考えているのです。審査委員であった私でさえも知らないことやわからないことが多すぎて、問題の考察に時間がかかっておりますが、今回の問題は偶然起きたことではなく、起こるべきして起こったことであると感じており、デザインに携わるひとりとして、このままにしてはいけないと考えて、事実を積み上げていきながら考察を続けているのです。組織委員会に対しては、二度と同じことが繰り返されることがないように、現在進行中のエンブレム審査をはじめとして、2020年に開催される東京オリンピック・パラリッピックの成功に少しでも役立てていただきたいとの思いから、体験したことを記録化していきながら、デザイナーの観点から問題の原因を分析することで、私のブログの考察が、組織委員会の危機管理の参考資料になればと考えておりました。救いようのない現状を嘆くのではなく、諦めるのでもなく、未来に希望を託しながら、未来のことを考えて起こしている行動なのです。

なぜ、無断で使用した私のブログの記事に、相関図や人権無視のいきすぎた表現を施したテレビ番組の画面の画像を共存させたいのでしょうか。すこし話はそれますが、私のスタッフはネット上に滞留するこの『every』の画面の画像を見て、「なぜ平野さんがこのような目に遭わなければならないのですか。悔しいです」と言って私のために泣いてくれました。大切なスタッフにこのような思いをさせて、私自身情けなく、無念の思いでおりますし、この画像を見たときに、番組の制作者は、この画面を無邪気に作ったのかも知れませんが、素材となった私どもの苦しみを感じ取れる感性があるのであれば、今以降の表現に活かしていただきたいと願います。このようにある制作意図をもって作られたイメージの影響力の恐ろしさを、今回のように身をもって痛感したことはありません。この苦しみも、今後の表現活動の糧としたいと思います。

相関図は誰が作ったかわからない出所不明の情報です。私のブログの文章は、責任をとるために記名で公表しています。この出所不明の情報と記名の文章と顔写真を混在させてひとつの記事にまとめることによって、歪曲された内容であるにもかかわらず記事への信憑性がうまれ、誤解が生じてしまうと思います。私は使用許可を出しませんが、これほど絶大な影響力をもつ媒体の編集者として、どうしても私のブログの記事を書きたいと考えるのであれば、もう少し、私の文章を読み込んでいただけないでしょうか。そしてその上で、裏付けのとれた確証のある資料とともに記していただけないでしょうか。原因があるから結果があるわけですが、今回の問題の原因は、複数の人が介在する多層的な構造であるために、この人ひとりが原因を作りましたというふうに、ひとことで語ることはできないと分析しており、個人に批判が集中すべきではないと考えたため、ブログで考察を重ねているのです。私のブログや顔写真をどうしても使うのであれば、個人名の入る見出しや相関図、悪しきテレビ画面を外すという方向に、編集方針を考え直していただけないでしょうか。どうしてもそれが難しいようであるならば、ひとつ提案があります。ゆるキャラの世界に金字塔を打ち立てたスーパースターのふなっしーに習い、『本人無許可の非公認記事』と記述していただけないでしょうか。

「私のブログは、個人を糾弾することを目的としておりません。」と記述しましたが、そのように考えているにもかかわらず、なぜ、元・組織委員会の高崎卓馬氏とグラフィックデザイナーの永井一正氏を実名で記述しているのか、今からその理由を説明いたします。高崎氏は組織委員会のクリエイティブ・ディレクターという肩書きで、オリンピックのクリエイティブの責任を司る「クリエイティブ監督」という役職を担っていた方でありますし、永井氏は審査委員代表として、五輪エンンブレムコンペ構築の中枢に位置し、重責を負っていた方だからです。そしてこの人たちの判断や行動が問題の発露となったことは紛れもないことですので、記名表記にならざるを得ないと判断いたしました。しかし、高崎氏はフリーランスの立場ではなく、組織委員会のいち職員として組織に属し、組織から責任を与えられていた立場でしたので、一般通念としては、高崎氏に対して役職とそれに伴う責任や権限を与えていた組織委員会の責任者とともに、出向元の広告代理店の責任者が最終的に責任を取るべき事象ではないでしょうか。組織に所属している人間が業務上で問題を起こした場合、組織の管理責任が問われるはずですが、もしも問われないとするならば、組織とは名ばかりの、組織として機能していない集合体といえるでしょう。

責任をとれないスタンスには理由があると思います。オリンピックは世界規模のスポーツ・イベントですので、関係機関や政府、スポンサー企業など公私にわたる複数の組織が関係していますので、この複雑な構造のなかで実務を遂行していくためには、問題が起きたときの危機管理の方法として、関係各所に責任論が派生しないような配慮を優先しているのではないかと想像しておりますが、現代社会のように、ありとあらゆる情報がネットワーク上に可視化する時代では、情報操作や情報管理が困難であるために、事情ありきの情報操作という前時代的な方法論は通用しないということが、白紙撤回となった今回の問題で証明されたと思います。

エンブレム問題の最終章として、外部有識者による調査では部分的な問題点しか検証せず、問題の本質を考察せず、記録化しなかったことにより、結果的に個人に責任を集中させることになりました。今回のような不公平な調査報告書の内容であれば、国民の不信感や怒りは治まらず、特定の個人がオリンピック問題の憎悪の対象になり続ける可能性もあると思います。問題の原因の一端を負う、1位案を制作したアートディレクターが、自身から説明を果たさないということが状況を悪化させていることも事実です。しかし、たとえ周りが説明を望んでも、当人は無言を貫くわけですので、組織委員会の取るべき態度としては、全責任を負う立場の組織委員会が、同アートディレクターに関連する問題点も調査し、問題があればその内容を調査報告書に記載すべきであり、責任機関が問題の原因を記録することにより結論が導かれると、国民は納得し、当事者でありながらいっさい発言をしてこなかった人たちを、結果的には救うことになると思うのです。

あくまでも私個人の見解になりますが、私が考える責任をとる方法とは、問題の原因を曖昧にしたまま責任者が辞任したり、担当者を更迭するという方法ではありません。終息ありきの不十分な調査ではなく、公平な視点や見識により原因を究明し、積み上げた事実を記録し、その資料に基づいて再発防止のための組織改変を行い、検証結果をつつみ隠さず国民のみなさまに報告し、問題の原因が解明できれば責任者が謝罪をし、禊払いをしたのちに、心新たに与えられた役職の責務を全うするということが、責任をとる方法だと考えています。組織の責任者が間違いを認め反省し、心から謝罪をし、方法を改める姿を見れば、国民が理解を示さないわけがないと思います。どうして我々国民の認識力を信じてもらえないのでしょうか。

いまのこの瞬間にも世界中のアスリートたちは、人類未踏の領域に到達するために、百分の一秒という時空の壁を突破すべく、想像を絶する過酷なトレーニングを繰り返しており、その姿をイメージすると、一日も早く問題を解決したいと願っていましたが、本来であればアスリートたちの崇高な精神を象徴化すべきエンブレムデザインの制作プロセスにおいて、前代未聞の不正行為が行われたにもかかわらず、それを司る組織委員会がいまだ尚、問題に正面から対峙しないまま、フェアな態度ではなく、スポーツマンシップとは真逆といえる思考回路のままでは、これからも新たな問題が起こり続けるのではないでしょうか。組織委員会がそのスタンスを変えない限り、国民はオリンピックを負の遺産として記憶することになるでしょう。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める