010 専門家の盾

五輪エンブレム問題発覚以降、審査委員のひとりであるグラフィックデザイナーの永井一正さんは、公式会見の場で「審査委員代表」という肩書きで発言してこられました。しかし、そのことに違和感を感じるのは、永井さんが審査委員代表という役職であったということを、記者会見で知ったからです。審査委員の依頼を受けた日の打ち合わせでは、審査委員全員が並列の立場であるように、五輪エンブレム審査では審査委員長などの特別職は設けないとの組織委員会の意向説明を聞いたと記憶していますので、打ち合わせの内容と矛盾する、認知外のこととして浮上した「審査委員代表」という役職名に違和感を感じたのです。

今にして思うと、最初の打ち合わせから話の辻褄が合っていなかったということです。高崎卓馬さんは、オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のクリエイティブディレクターという審査を運営する立場であり、審査委員を兼任されていましたし、永井さんが五輪エンブレム審査に関して、審査委員の人選や応募資格のガイドラインといった審査の骨子について、有識者のひとりとして、様々な助言をされ、コンペの立案に深く関与されていたことは、組織委員会の担当者より聞いていますので、いち審査委員の責任の範疇ではない重責を負っておられたということなのでしょう。2015年9月28日の記者会見でも、永井さんと高崎さんの二人の連名で、8名のデザイナーに招待作家の依頼の手紙を送っていたという事実が組織委員会によって公表されました。その会見の直後に、週刊誌に掲載された実際の手紙の画像を見ましたが、そこには、「審査委員代表」の印字の下部に、直筆サインが施されており、手紙は2014年9月12日の公募開始以前に発送されたということからも、永井さんが、審査会以前から審査委員代表として特別な役割を担われていたことを理解いたしました。

このように、審査委員に序列がないとの説明は表向きの建前で、実際には序列があったわけなのですが、なぜあえて、審査委員には序列がなく、並列であるということを説明しなければならないのか、それが不思議でなりません。今回の五輪エンブレム問題に救いが見いだせないのは、このように、何も問題がないと思うようなことなのに、なぜか事実を表明せず、ふたつの矛盾する事柄を、パラレルの状態で同時に進行させていることです。あまりにも、知らない、知らされていないことが多すぎて、審査というものが、まるでマトリョーシカのような、何層もの入れ子構造になっているようで、外側から一見しただけではわけがわからない状態です。そのうえ知らされていなかった事実が発覚したあとも、ほんとうのことは見えないままで、審査委員である私でさえも、誰を信じていいのか、何を信じていいのかがわからない、混沌とした状況ですので、外側から見ているみなさまには、五輪エンブレム審査という現象が、迷宮のように見えているのではないかと思います。

記者会見での永井さんの役割は、組織委員会が伝えたい内容を、グラフィックデザインの専門家として、組織委員会に代わり国民のみなさまに向けて説明し、記者会見で公表される組織委員会の見解の信頼性を担保するという、組織委員会側の人としての仕事を遂行されていたと感じており、これはまるで、「組織委員会の盾」のようだと思いました。長年、積み重ねてこられたご自身のデザインの理想を封印してまでも、「組織委員会の盾」となることを、永井さんが判断されたのですから、すでにこれは組織委員会側の問題ではなく、最終的には、グラフィックデザイナー永井一正の『個』の問題であると思うのです。なぜならば、「組織委員会の盾」となる、審査委員代表という役職を断わる権利は与えられているはずだからです。そうであるにもかかわらず、その役割を全うされたということは、これはプロフェッショナルの判断であり、ご自身の意思であるわけで、組織委員会の責任の範疇ではないと考えます。

なぜ、このことに言及するのかといいますと、永井さんが発言された記者会見には、見逃すことができない問題があったと思うからなのです。そもそも、「審査委員代表」という肩書きは、審査委員8名の代表という立場なのですから、記者会見という公の場で審査委員代表として発言するのであれば、発言内容について、他7名の審査委員に事前確認をとるか、もしくは委任状をとりつけるなどの、しかるべき手順を踏まなくてはならないはずだと思うのですが、組織委員会の態度は一貫しており、事前に会見が行われることも、その会見で審査委員代表として永井さんが発言されることも、審査委員代表としての発言内容も、いっさい連絡はありません。当然のこととして、委任もしておらず、委任をとりつけていないということは、審査委員の総意との前提の発言であるならば、合法的な手順を経ていないということになり、記者会見という公の会見の作法として、問題があるのではないかと思います。記者会見で審査委員の総意であるかのような見え方で、組織委員会が描くシナリオに則した発言を行うと、永井さんの長年にわたる輝かしい功績から、その発言内容は重く受け止められるはずで、他7名の審査委員に未確認の内容を、あたかも審査委員の総意のように語るのは、いかなる理由があったにせよ、許されることではないと思うのです。

私は審査委員でありながら、問題発覚以前も以降も、審査会以外の会議に呼ばれたことはありません。旧エンブレム案が白紙撤回となった9月1日の午前中に、組織委員会事務総長の武藤敏郎さん、永井さん、佐野研二郎さんによって三者会議が行われたということも、武藤さんの会見で知りました。記者会見の前日の8月31日に、組織委員会からメールが入り、五輪エンブレム1位案の取り下げについての意思の確認がありましたが、そのメールにも三者会議についての記述はなく、審査会で決定したエンブレム案の取り下げを決議するという、これほど重要な会議でさえも知らされず、知らされていない会議に出席しようがなかったというのが事実です。審査委員としては到底、納得のいくことではなく、最後まで無念の思いが残りました。この日の会見で、武藤さんは、永井さんのことを「永井審査委員長」と発言されていました。組織委員会にとっての永井さんの役職は、審査委員ではなく、審査委員代表でもなく、審査委員長だったということなのでしょう。

組織委員会のみなさまにお願いしたいことがあります。永井一正さんが責任感の強い方だということを、後進として知っており、慣れない記者会見での発言であるために、本来の自分らしい言葉を選べなかったのではないかとも想像し、組織委員会の意向を発言される永井さんの会見を、釈然としない思いで聞きました。どうか道を極めてこられた専門家を前に出し、「専門家の盾」とするこの方法論を考え直していただけないでしょうか。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める