027 「社会に位置づくデザイン」という観点

2015年12月18日に、組織委員会が公表した調査報告書によって、永井一正氏と組織委員会の要職にあった高崎卓馬氏と槙英俊氏による不正審査の事実が確定され、新聞各紙やテレビ、インターネット・ニュースで報道されてより1ヶ月以上が経ちました。これほど大きな社会問題と化した現象でありながら、問題に関与した当事者や当人の所属会社、関係デザイン団体、関係教育機関といった社会的責任を負う人や組織が説明責任を果たさずに沈黙を貫き、責任を放棄し、さらには沈黙のみならず、何もなかったかのようなそぶりで平然とPR活動を行うという、不道徳が行使される現状を静観してきましたが、真実を黙殺する、この気持ちの悪い反省のない世界は、新国立競技場問題がそうであるように、あたかも無限の地獄の様相を帯びてきています。

2016年になり、ひき続き文章を執筆してきましたが、ブログを更新しようとする度に抑止力が働いて、文章を公表するに至りませんでした。この抑止力は外圧によるものではなく、あくまでも自らの意思が働いた結果です。ブログを更新しなかった、出来なかった理由というのは、組織委員会が強行した偽りの調査報告書による事実上の収束宣言に落胆したからでも、諦めたのでもありません。組織委員会が調査報告書を公表したからといっても、それは公文書という名のもとの嘘の混じった偽りのある文書にすぎず、問題は解決していませんし、終わってもおりません。その上に、問題に関与した当事者たちや関係者全員が、エンブレム問題に関してのみ沈黙を貫くことで、収束するどころかデザインを取り巻く状況は、むしろ悪化の一途を辿っているように思います。そのような、救いのない末期的な状況であるにもかかわらず、1ヶ月の間、同時進行形でリアルタイムに考えを表明できておらず、責任を果たせないやましさに、苦渋の時を過ごしました。

新たなエンブレム審査が進む中、ブログを継続していくためには、考察のための立脚点を見直して、次の階層に移行する必要があるとの考えに至りましたので、考察の方針を再構築するために沈思黙考の時が必要でした。

昨年末までのブログの主たる使命と役割は、審査委員として体験した事実を記録していくことで、責任を果たすことにありました。今となっては、すでに周知の事実となりましたが、組織委員会が公式発表してきた内容は、2015月8月5日の記者会見から一貫して、不正の事実や失策を隠蔽するために、組織委員会にとって都合の良いように事実が大きく書き換えられており、審査委員として把握している事実とは乖離した創作劇であったために、ブログは比較検証のための情報提供という役割を負うてきましたが、同時進行形という、時間が切迫した状況だったという物理的な条件とともに、私自身の能力の問題もあり、言及しきれていないことも残しています。

ブログは新しい階層に進みます。論考の手法を当事者としての体験に基づく考察から、より客観的観点による考察へと主軸を移行して、「五輪エンブレム問題」という範囲のみならず、グラフィックデザイン業界の一部を中心として蔓延し、今回のエンブレム問題の元凶のひとつであろうと推察する「デザインのためのデザイン」という狭義な観点による、デザイナー本意の身勝手な価値観とは一線を画した、「社会に位置づくデザイン」という地に足がついた広義な観点を中核に据え、相対的な考察を試みたいと思います。

平野敬子

平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める