情報を発信しない理由として、仕事を通し、マスコミュニケーションの影響力を知るデザイナーとして、デザイン開発時の守秘義務の実行を徹底することや、デザインの匿名性という観点に立ち、自己や自社のPRにならないようにと戒めの意味も含め、情報発信の目的の軸がずれることで、依頼主に余計なイメージを付加しないためのマナーだと考えていました。ほんとうに必要なことは、いつか繋がっていくものだと思っていましたし、まず重要視すべきことは、情報の量ではなく、情報の質だと考えておりましたので、情報を遮断していても、必要なことはしかるべきタイミングと方法で入手できていましたし、コミュニケーションデザインの新しい方法を開発し、研究するという日常の活動への支障は感じておりませんでした。しかし、今回のエンブレム問題を契機とし、この消極的なスタンスが正しいとは思えないようになりました。なぜならば、ブログで発言しなければ、審査委員として体験した、ほんとうのことを伝えるすべがありませんでした。
私の未熟な文章を、美術家、科学者、研究者、主婦、古本屋さん、建築家、全国のグラフィックデザイナー、ウエッブデザイナー、プロダクトデザイナー、編集者、ファッションブランドのディレクター、バイヤー、大学関係者‥‥記名の方も匿名の方も、さまざまな立場の人が、時間を費やして文章を読んでくださり、読後の感想や意見を書いてくださっていて、書き込まれた言葉のひとつひとつを目で追うと、体にちからがわいてきて、沈黙の空気に包まれた閉塞感に光が射し、孤独から救われるように思います。時にエモーショナルな言葉使いの批判的意見も目にしますが、自分の考えと異なる価値観の文章を読んで意見するということは、そうとうのエネルギーがいるのではないかと考えますと、感謝の気持ちも生まれます。今さらと思われるかもしれませんが、インターネットの双方向性をはじめて体験し、いままさに、「言葉のちから」の可能性というものを肌で感じながら、新しいメディアにおけるインタラクティブコミュニケーションのダイナミズムを、現在進行形で体感しているところです。
この度の経験を経て、情報遮断という消極的態度に対して、疑問を抱くようになりました。情報遮断の肯定として、概念的理由や理屈を書き連ねてきましたが、根本のこととして、私には、情報の大海原に出て行く勇気がなかったのではないかと、いまとなっては思っています。未知の領域へ出て行くことへの恐怖心が勝り、情報の海を航海できなかったのだと思います。外圧とでもいうべき、このような機会をいただかなければ、一生経験できなかった景色を見ています。
いままでは、主体的に情報の支配から逃れることで精神の均衡を保ちながら、デザイン開発に取り組んできましたが、五輪エンブレムの審査委員としては、このライフスタイルが災いしたと思います。現代グラフィックデザイン関連の情報と知識があまりにも不足しており、コンペ出品作品104作品のうちのほとんどの作者を特定することができませんでした。そして、1位案についても作者を特定することができず、作家性やオリジナリティの観点から、作品を分析することができませんでした。最終的に白紙撤回の引き金となった展覧会『ヤン・チヒョルト展』を見ておらず、展覧会告知物のアートディレクションとの類似性といった、1位案原案の問題を見抜く事ができませんでした。タイポグラフィが専門ではないといえ、ヤン・チヒョルトに関する知識の欠乏も問題であり、チヒョルトの造形と1位案原案の類似性にも気付かなかったことは、五輪エンブレムの審査委員としては、あきらかに能力不足であり、審査委員として最大の落ち度だったと考えています。知識や情報の不足により、適切な判断が下せなかったことに対して、心から反省しています。
失敗の経験が次の審査に活かされるようにとブログを始めましたが、今回、文章を書くことで実感したことがあります。複数の人と人が関係する複合的な出来事は、それが短い期間のことであったとしても、情報が何乗にも膨れ上がり、途方もない情報量になっていくということで、それを文字の記号に置き換えるための技術と能力の問題に直面しています。アメリカFOXのテレビドラマ『24-TUENTY FOUR-』における、時間軸のリアリズムの表現をイメージしていただければ、何乗にも膨れ上がった経験の情報の密度を理解いただけるのではないでしょうか。
ブログは、二次元の平面上に、時系列で文字が蓄積されていくという構造ですが、このフォーマットのフレームの中で、多様で多角的な立体構造の体験情報を記録するためには、例えそれが点のように小さなことであっても、事実を根気よく積み上げて考察することで、いつかは本質に到達するのではないかと考えています。そのためには、感想や感情といった類の言葉を差し挟まないように心掛け、事実に則したディテールも記述しています。情報処理と情報整理の能力は、デザインにおける美学的、感性的側面ではなく、機能的側面の必須能力ですので、デザイナーの資質として必要な先天的能力だと考えますが、後天的にも身につくように訓練しなければならないことですので、ブログにおける、精度ある情報整理の方法について、試行錯誤を繰り返しているところです。
「言葉のちから」について考察するなかで、「暴露」という言葉について考えたいと思います。リアクションのなかに「暴露」や「告発」といった文言を見かけることがあります。私のブログの記述の方法は、事実の積み上げに徹しており、隠す必要のない体験した事柄を記録し、考察しているだけなのですが、隠そうとする人との対比から、ネガティブなイメージの言葉を引用されるのでしょうか。ブログという、時間軸を内包するオープンで合理的な論考のスタイルでありながら、「暴露」という言葉の字面を目にすると、当事者である私自身でさえ、悪いことを行っているかのような錯覚に一瞬、とらわれてしまいます。「言葉のちから」には多様な側面があり、言葉の宇宙は深淵だと思い知らされています。
いまいちど、「暴露」という言葉が使われる背景について考えてみましたが、このような言葉を引用したくなるのも無理がないことだとも思います。なぜならば、関係者全員が口を閉ざすという、不健全で重苦しい空気に、東京オリンピックが支配されているからだと思います。再度、説明いたしますが、ブログに記していることは、審査委員全員と、関係者全員が体験したことを書き記しているだけでして、書類やメールなどの物理的な記録や情報も多数残っており、そこから事実を積み上げて、考察を重ねているのです。しかし、関係者が口を閉じるという、この重苦しい空気はいったいどこから生まれてくるのでしょう。今回の五輪エンブレム問題では、組織委員会、外部有識者、大手広告代理店、審査委員、出品者、招待作家、関係デザイン団体、関係大学、関係企業といった、当事者や関係者やグラフィックデザイン業界や広告業界が口を閉ざし、議論がない世界の現実に直面しています。業界全体が沈黙するという異常な状況のなかで、少しでも議論が起きるようにと願いながら、書き記しています。
今回のような問題が起きた場合、その再発を防ぐために、原因の究明に向けて、事実を重ね記すべきだと考えていますのは、「STAP細胞」の問題が起きたとき、あのような幕引きだとまたすぐに同じようなことが繰り返されるはずだと思いましたし、日本の科学の世界にとって、反省と改善の好機を逃してしまったと、いち国民として、心の底から無念に思いました。そのときに感じた憤りを忘れることはできません。「STAP細胞」と「五輪エンブレム」は、問題の本質や構造が、極めて似通った社会現象だと感じておりますので、関係者として考察を続けていかなければいけないと思っているのです。
問題の根本的な解決を目指すには、様々な場所で健全な議論が起こり、言葉が交わされていくことが必要なのだと考えています。当事者でありながら発言せず、沈黙を貫き、時が過ぎることを待つだけの組織や団体や学校や企業や業界は、責任を放棄した、非社会的なカルト集団だと認識されることでしょう。
この度のソーシャルメディアの実体験から、いままでにも増して、「言葉のちから」の可能性を信じるようになりました。インターネット上の言語空間に見る、双方向で時間軸を内包しながらも、シンプルな二次元的表現による「言葉のちから」に、光を見いだしています。
平野敬子
平野敬子 デザイナー/ビジョナー コミュニケーションデザイン研究所 所長
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める
白紙撤回となった2020東京五輪エンブレムの審査委員を務める